今日では何をさして彫金と言うのかわかりませんが、彫金制作技術の一部である錺職の作業をもって彫金と呼び、それが彫金の全てであるかの如く誤解され、錯覚をまねいているのが実情です。
彫金は、その昔金彫〔かねほり〕と呼ばれていた時代がありました。
彫金と呼ばれるようになったのは、明治二十一年に勅令によって官制が公布され、上野公園内旧寛永寺寺坊覚成院・等覚院の跡地に校舎の建築が完成し、十月に東京美術学校が創設され、翌年二月に開校した頃からです。
当初は日本画・木彫の教科がまず設置されましたが、約一年後に金工・漆工の二科が増設されました。
そしてこの頃に名称の点で金彫か彫金かの論議がなされ、結論として彫金と読んだ方が軟らかくしかも語呂がよいという学校内の多数意見が出された事で、今までの読み方を天地して決定したと聞いています。
日本に金工が伝えられるようになったのは、恐らく前漢代の後期の頃、アジア大陸を経て東方に遠征する目的で渡来した人々と共に同行して来た工人達の技からであろうと思われます。
その技術は、子孫へと次々に伝承されながら今なお、その鎚音は打ち続けられています。金彫の起こりは、刀工達の仕事と共に刀身の保護を兼ねながら、さらに装飾と外装の必要性にも及んで工夫されて、次第にその制作が独立したものとなって完成されました。
また公卿から武士に政治権力が移行するようになると、武士の権威を高める表徴としての装飾的効果も兼ねる必要上、刀剣の外装は優美であることと共に、その権威を表現するにふさわしい立派な姿に仕立てるように要求され、この要求に応じるために金彫師達はさまざまな工夫と研究を重ね、意匠も制作技術も高度な物に発展していきました。
制作上に用いられる工具類はみな、焼入れが行われています。特に硬い金属をきざむことを目的とされた鏨には、切れ味の優れたものが要求されたことは当然であります。そして切れる鏨を用いる事によって、それが独特な制作へと発達したものと考えられます。
例えば象嵌をする場合のように、主となる金属の素地の中に、異質の金属を浮上する部分だけ残して埋め込み、さらに浮き上がっている部分に肉付彫刻をする技法や、或いは金属面に文字や文様などを筆書きした書体の通りにきざむ片切彫刻の技法、または細く美しい溝線を彫る毛彫彫刻の技法など、鏨は使用法に従って工夫され、益々よく切れるものが必要となって生み出されました。
刃先は船底型をした三角形で、反り返った舟の舳先のところを上部から平面に研ぐと三角溝を線彫りすることの出来る鏨が出来上がります。
この鏨の船底型を地金の面につけて、指先で斜めに地金の中にその先端を打ち込み一定の深さの線を溝の如くに鎚の打力と共に切り進めて行きます。
その名の如く,刃の片側で例えば墨書きした文字などを、その筆法に従い鏨さばきで地金を切り取って行くものです。
鏨の刃は広く研いだ側を上部とし、少なく研いだ刃裏の側を地金を切り込む面に当て、片側を立てて隅から打ち込み順次に墨跡を切り進めて行きます。
Teborでは毛彫鏨・片切鏨など各種鏨を使った手彫りの技術で仕上げた作品を展示していきます。
単に絵模様が線状に区切り現されているというものではなく、地金の光沢を巧みに応用させることに技術の冴えを見せて、平面のものでも肉付けの盛り上がるかの如くに思わせ、確かな表情をその小さな面積に表現します。